歴史
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東高野山弥勒院 医王寺の歴史

 医王寺は東高野山弥勒院と号する、真言宗豊山派の寺院です。薬師如来の別名である医王如来の名を寺号としていることからも知られるように、薬師如来を本尊とする寺院であり、講堂の秘仏本尊として薬師如来坐像を、金堂の本尊として薬師三尊像を安置しています。

 縁起によれば、敏達天皇の勅願により聖徳太子が自ら薬師如来を造立して伽藍を整えられ、大同4年(809)、弘法大師空海(774~835)が東国を巡錫した際に自らの御影像や不動明王などを納めて鎮護国家の道場とし、弘仁年間(810~824)、高野山の開創によって当地を「東高野山」と呼ぶようになったと伝えられています。また、日光開山の勝道上人(735~817)が夢告にしたがい山中より薬師如来を発見し堂閣を建立して尊像を安置したとも伝えられています。

 医王寺の創建については必ずしも明らかではありませんが、講堂の秘仏本尊薬師如来坐像が、平安時代後期の作と推定されることから、遅くともこの頃までには寺院としての体裁を整えていたものと考えられます。鎌倉時代には、金堂の本尊薬師三尊像を始めとして、数多くの仏像が造立され、大がかりな造営事業が進められたようです。縁起では、正中2年(1325)に、西方遠江守烏丸貞泰(~1333~)が堂宇の再建に尽力したと伝えられていますが、近年は、京都・畿内で活動し仏教信仰も厚かった宇都宮氏が、鎌倉時代における医王寺の造営事業を支援した可能性も指摘されています。また近年、吉祥天立像の納入品(『金光明最勝王経』)に記名がある晴空(1262~?)という僧侶の鎌倉における活動が金沢文庫の史料から確認され、北関東と鎌倉の間を活発に往来していた僧侶の動向が明らかとなりました。

 医王寺は中世以降、地方における仏教修学の道場としての機能を有していたようです。江戸時代・寛政7年(1795)の『新義真言宗本末帳』には、本末関係では醍醐寺報恩院流の直末寺(法流末寺)であり、末寺6ヶ寺、門徒5ヶ寺を統領する田舎本寺(中本寺)・談林寺院であったことが記録されています。江戸時代には幕府から朱印地として寺領五十石を下賜され、歴代住職の尽力により寛永年間(1624~1644)に焼失したとされる堂宇も再建されて、現在の伽藍が完成したと考えられています。当寺が所蔵する古絵図には、寛永の焼失以前の境内が描かれており、南から順に「仁王門」「大堂」「小堂」「客殿」が並ぶ、現在とは異なる配置であったことがわかります。それら堂宇のうち、現在の金堂の位置にあった「大堂」には現講堂秘仏本尊の秘仏薬師如来坐像を本尊、現金堂本尊の薬師三尊像を前立本尊として安置し、金堂の北側にあった「小堂」には弥勒菩薩坐像を安置していた可能性も指摘されています。

 近代に入ると、明治35年(1902)の足尾台風により仁王門・金剛力士像が倒壊するなど、堂宇の荒廃が進みましたが、昭和50年代から栃木県や旧粟野町、鹿沼市、檀信徒のご協力により建造物と仏像彫刻の保存修理が順次行われ、伽藍が整備されました。

 現在、医王寺には、下野の地に花開いた仏教文化の豊かさを示す、多種多様な宝物が伝えられており、そのうち30件が栃木県の有形文化財に、3件が鹿沼市の有形文化財に指定されています。

吉祥天立像納入品(『金光明最勝王経』奥書部分) 鎌倉時代・正和2年(1313) 晴空書写

左:医王寺古地図境内部分/右:医王寺古地図